「フライト当日、アテンドが来なかったけど自分には行く選択しかなかった」こう語るのは、22歳でプロサッカー選手を目指してヨーロッパへ渡り、4年間のプロ生活を経て引退した内野義識さん(44歳)。
海外でプロサッカー選手になりたいと思っても「自信がない」「コネクションがない」などの理由から断念する人も多いなか、無名選手がどのようにしてプロ契約まで至ったのか。20年前を思い出してもらいながら海外でのプロ生活についてお話を伺った。
海外でやりたいなら今すぐ行けばいい
ー内野さんはヨーロッパで約4年間プロサッカー選手として過ごされていました。20年の時が経ち、今振り返ってみてどのように考えていますか。
日本ではサッカー選手として無名だった僕が意を決して海外に挑戦し、プロ契約できたのは、本当に周りの方のおかげでもあります。高校や大学で華が咲くわけでもなく、夢を追い求めてリエゾン草津(現ザスパクサツ群馬)でプレーをし、恵まれていない環境でしたが、一人ひとりが一生懸命生きていましたね。
プロ生活を含めて、すべてが良い経験でした。ヨーロッパでの経験がオシムさんの通訳にもつながったので、海外に挑戦した当時の自分には「頑張ったな!」って言ってあげたいです。やっぱり行動をしないと何も始まらないですからね。
挫折もたくさんしましたが、あらためて振り返ると楽しいサッカー人生でした。
ー近年は多くの若い日本人選手が海外でプロになることを目指して海を渡って挑戦しています。
日本でプロ契約をできずに海外へチャレンジするという観点での話にはなりますが、長い人生を考えると海外へ挑戦することには大賛成です。
小学生だろうが、中学生だろうが海外でやりたいなら今すぐ行けばいいと思っています。最近は、個人で参加できるサッカーキャンプもありますし、行ってみてダメだったらダメでいいんです。
海外で通用するレベルになるために、自分に何が足りなくて、何が必要なのかを知れるし、本気でプロになりたいなら自分で考えるはず。
厳しいことを言うと、自分で考えられないなら結局は上にあがれない選手で終わってしまいます。
あとは、大学を卒業した時点で行きたいと思うなら、もっとスピード感を持ってチャレンジして行く必要があると思います。将来を考えて、語学やコネクション、文化など吸収できることはがむしゃらに吸収していくことが大切だと思います。
サッカーで思い通りの結果を出せなかったとしても、人生でプラスになる材料が蓄えられると考えています。考え方次第ですが、海外経験が自分の強みになっていけば悪いことではないんじゃないかと思いますね。
ー日本と海外では選手に対する評価ポイントに違いがあると言われています。2つの国を経験してどう感じていますか。
自分が海外に行った時代は、評価に違いがあったとすごく感じていました。
日本では、2000年くらいまで「個の力」で流れを変えることができる選手が評価されている印象です。でも、オシムさんが来てから選手への評価が少しずつ変わってきて、自分みたいに組織でしかプレーできない選手も評価が上がってきたように思います。
たとえば、元日本代表の鈴木啓太さんが評価されるみたいに、チームにとって大事なピースの1つっていう存在ですね。それが注目され始めたのはオシムさんの影響が強いんじゃないかなと思っています。
今は差がなくなってきていると感じています。
ー海外の1部や2部リーグでプレーできる選手と4部または5部リーグでしかプレーできない選手の違いはどこにあると考えていますか。
単純に実力があるかないか、それだけだと思います。
海外に行くと、慣れない環境からメンタルが原因と言われることも多いですが、僕の経験上、フィジカルと個人戦術の差、その実力差だけだと思います。
実力があれば、メンタルは充実してきます。
たとえば、ものすごくフィジカルと個人戦術の高い選手がいて、メンタルだけはめちゃくちゃ弱い選手でも、きっとやっていればそれ相応のメンタルにたどり着くと思っています。
自己肯定感が低くて東京トレセンに入っている選手をうらやましく見ていた
ー小学生、中学生時代はどんな選手だったんでしょうか。
どこにでもいるような選手でした。
小学生時代は東京都立川市にある立川4小SCという少年団にいて、中学生からは地元のクラブチーム、ONZE(オンゼ)に入団しました。レギュラーで出させてもらっていたけど、選抜選手とかに選ばれるレベルじゃなかったです。自己肯定感が低くて、東京都トレセンに入っている選手をうらやましく見ていたような選手でしたね。
ー自己肯定感が低い選手だったのには理由があるんでしょうか。
小学生時代によく怒られて、サッカーの正解みたいなものを探してやっていたんです。正解なんてないのに。中学時代も同じように監督に怒鳴られたくない気持ちでやっていたから、監督の顔色を伺ってプレーしていたのかもしれないですね。
体形もちょっと太っていて、運動能力も低くて、どうせ自分は周りから評価されてないって勝手に思っていたのが一番の理由かもしれません。
他人のせいにしていますが(笑)自分の性格上、その環境は少なからず影響していたと思います。
ー高校の進学先を国学院久我山を選んだのはなぜですか。
一番の理由は、大した実力もないのに、クラブで持っていたルートに乗るのが嫌だったことです。
中学時代で入ったONZEから、東海大菅生高校や日大明誠高校、堀越学園などに行く選手が多かったと思います。クラブが持っている強みに頼らず自分の道は自分で決めたかったのかもしれません。
他の高校でサッカーをやろうと考えたとき、国学院久我山高校のセレクションを受け、合格したので入りました。今になって聞いた話ですが、自分の身体能力が低すぎてセレクションで自分を取るかどうかは、監督コーチの間で相当な議論になったと聞いています(笑)
僕が入ったころはまだ全国に出たことがないチームでしたけど、1年のときから運よくメンバーに入れて、初めての選手権大会では東京都予選決勝までいけました。結局、決勝では東海大菅生に負けちゃいましたけどね。
マルディーニに憧れて真似ばっかりしていた
ー初の全国高校サッカー選手権大会に出場しましたが、初戦敗退でした。初の全国の舞台で戦った感想はどうでしたか。
東京都代表として初出場できたんですけど、初戦敗退でしたね。
四中工も全国優勝するレベルではなかったと思うけど、当時から世代別代表選手が何人かいて、いいチームでした。自分はボランチで出場させてもらいましたが、前半に1点取られてしまい追いつけずそのまま終了…。
感触としては、全体的に後手に回って戦っていた印象が残っています。久我山もチャンスはあったんですけど、葛蔭先輩とか、個人で運べる選手のところからしかいけなかったので、攻撃が単調になっていたとは思います。全体としてうまくいかなくても、チームみんなでうまくごまかして戦っていた感じでした。
3年生のときは、チームスタッフがガラッと変わってしまい、組織的なサッカーから個の力で戦うサッカーに変わっていきました。個の力がない自分は何もできないまま終わってしまい、歯がゆさしかありませんでした。過去最弱チームと言われていましたし、とても悔しい1年でした。
ー海外でプレーしたいと思ったのはいつからでしょうか。
中学生くらいのときから海外でやりたいって思っていました。
当時は元イタリア代表のマルディーニに憧れて真似ばかりしていましたよ。
マルディーニやデシャン(元フランス代表)の影響が大きくて、チームメイトやコーチが世界を意識させるようなことを普段から言ってきたので、その影響もあると思います。
「お前はデシャンとプレーが似ている」ということで監督からも評価され、海外でならもっとできると、勝手にその気になり勘違いして自分を信じていました。
当時は、今ほど海外に行く日本人が多くなかったので、野心をもっていましたね。
初めてサッカー選手として認められたって感じでうれしかった
ーリエゾン草津(現J2ザスパクサツ群馬)ではどんな2年間を過ごしていましたか。
特にシーズンがはじまる前は緊張感があったし、認めてもらえるかなと不安を持っていました。
リーグは群馬県リーグ2部に所属していて、サッカー以外の時間は、旅館でバイトしながらお金を貯めていました。2年目もスタメンを取るために貪欲にトレーニングしていました。新しく入ってくる選手がうまく見えて、実際にうまい選手もたくさんいたし、だから常に不安はあったと思います。
自分なりに本気でリエゾン草津で2年間プレーして、海外へ行けるという話がきたので「ついに行ける」という気持ちで嬉しかったですね。
ーなぜ、このタイミング(22歳)で海外のプロチームへ挑戦しようと思ったのでしょうか。
実は海外挑戦は、大学1年(21歳)のときに出会ったトレーナーの鈴木さんのひと言からはじまっているんです。
明らかに格上相手のチームと対戦した試合後、鈴木さんが「君、うまいね、海外に行く気とかないの?」って言われたんです。小学生のころからずっと抱いていたコンプレックスのことで初めて他人にサッカー選手として認められた感じがして本当にうれしかったのを覚えています。
多分、この言葉が俺の海外に行くスタートだったんだと思っています。
大学1年のときセルビアに行こうとしたら内戦がはじまって行けなくなってしまったんです。そしたらセルビア(旧ユーゴ)の元プロ選手だった、ラトコ・ステボビッチがリエゾン草津で監督をやるって聞いて「じゃあ、とりあえず草津に行こう」っていう流れから、ヨーロッパへ行く前にリエゾン草津へ行きました。
だから内戦が起こらなければ、本当は2年早く行けるはずだったんです。
ーセルビアのコネクションはリエゾン草津時代のラトコ監督経由だったんでしょうか。
最初はラトコ監督経由でセルビアにチャレンジする予定でした。
だけど、オフシーズンが明けた2002年から、突然、リエゾン草津がザスパクサツ群馬に変わったんです。スタッフも入れ替わり、奥野監督の就任が決まったことで、ラトコ監督は日本に帰ってこなくなったんですよ。
そんなことがあり、ラトコ監督経由はむずかしいって状況になっちゃったんですよね。
結果的に別経由のコネクションでセルビアに行くことになったんです……。
今の時代は、エージェントが豊富にいるので、きっとそこまで困らないですよね。
ーセルビアへ行ってプロ契約するまでどんな感じだったんでしょうか。
日本からセルビアに行くまでいろいろトラブルが続いたんです。
まず、セルビアでのチャレンジが2002年8月スタートだったので、3月~7月までザスパクサツ群馬で練習させてもらおうとしていたんですが、海外に行くということでチームを離れるのに都合のいいことはできないと言われてしまいました。まあ当然ですよね。(笑)
だから、4月でザスパクサツ群馬をやめることになり、セルビアに行くまでは母校の大学や自分でトレー二ングする日々でした。
ーザスパクサツ群馬になったことでラトコ監督が日本へ帰って来ない状況だったんですね。その後、セルビアとはどうやってつながったんですか。
ちょっと複雑ですが、大学時代トレーナーだった鈴木さんが、セルビアにつながっている方を紹介してくれたんですよね。
セルビアのマチュヴァ出身の方で、それなりに街でもコネクションを持っている方がいて、自分たちとチームをコネクトしてくれて、マチュヴァのチームに練習生として行けるようにしてもらったんです。
向こうに誰がいるかわからないけど、行く選択しかなかった
ーセルビアに出発する当日はどんな気持ちでしたか。
フライトの日からハプニングが起きて、最初はどうなるかと不安な気持ちでした(笑)
アテンドしてくれる予定だった方が、当日になって「やっぱりいけないから2人で行って」と、連絡が来たんです。2人というのは、リエゾン草津時代の仲間(本間和生選手:現在はブータンのパロFC所属)も一緒だったんですよ。
空港にいた自分たちは「どうする?」と話をしましたが、今さら引き返せないって感じですよね(笑)
向こうに誰がいるかわからないけど、僕たちには行かない選択肢はなかったです。
ちょっとありえない話ですが、本当によく決意したなって思います。たしか、向こうに着いたら、案内板みたいなものを持っている人がいて、言葉もよくわからず車に乗せられていました。今考えると恐ろしいですよね、事件に巻き込まれてもおかしくない状況じゃないですか(苦笑)
ー練習生として参加した1ヶ月はどうでしたか。
チーム練習に参加したばかりのときは、通用している手ごたえがまったくなかったです。芝生が深いし、相手は体が大きいからフィジカルは強いし、強いボールをしっかり蹴れるって感じ。
僕はボールを蹴るので精一杯でしたよ。
このままだと契約してもらえないっていう感覚はありました。
何試合か練習試合に出させてもらい、ボールを保持しているときはある程度プレイできるんです。相手は3部リーグの格下チームなので。
でも、守備のときは相手から全くボール奪取できていなかったんです。ボランチとしてチームに貢献している感触がまったくない。基本マンツーマンで、プレスバックなんて求められてなく「自分のマークにやられるな!」というのが、当時のセルビアのスタイルでした。
だから、パスコースを消しているポジションとかの話じゃないんですよ。そこは日本と感覚が違いすぎて、もう1歩2歩、相手の懐に踏み込んでボールを奪えるかっていうところがスタートでしたね。
ーマチュヴァと念願のプロ契約をします。通用していなかったプレーから自分の中で変化があったのでしょうか。
ハプニングがありましたが、8月からチーム練習に参加して、9月に2人でプロ契約できました。
うまくいかない毎日でしたけど、サッカーノートで常に振り返る日々。基本サッカープレーヤーとしては能力低かったけど、自分の状況を感じ取る能力は多分あったんでしょうね。
スルーパスが出せるわけでもなく、起点を作るわけでもなく、無難なプレーだけしているだけで、アピールも特にできず自分で何やってんだよって危機感を持っていた。
でも、そこであることに気づけて少しずつプレーを変えていくことができたので契約ができたと思っています。
ー人生を変えるきっかけとなるハンガリーへ移籍しますね。
マチュヴァで2年半やっていたときの最後の監督がハンガリーのセゲドに移籍したのがきっかけです。俺を一人のサッカー選手として高く評価してくれた監督だったので信頼していました。
だけど、半年プレーして給料の未払いが続くような状態だったため、セゲドは半年しかいなかったんです。そこからケチケメ―トというクラブに行くんですが、全然成績を出すことができず、選手総入れ替えとなり契約解除。
最後はカボシュヴルジェというチームへ移籍しました。
ーヨーロッパで4チーム目となる「カボシュヴルジェ」を最後に引退した理由は何だったのでしょうか。
最終的には、サッカーへの自信を失ってしまったことです。
ハンガリーの友人からも「日本のような豊かな国から、サッカーのレベルも決して高くない国でプレーする必要もないし、意味がない」と言われたんです。
この言葉が、“お前は望んでいるレベルでプレーできない”と言われているように感じてしまったんですよ。
自分が隠してあえて考えないようにしていた「自分が持つ能力の限界」を突きつけられたのです。
あと一緒にセルビアで挑戦した、本間和生選手のステップアップに対して、自分ができない悔しさなんかも同時に感じていたと思います。
だから半分むかついて帰国したんじゃなかったかな(笑)
正式には帰国してから“引退”を決めました。
サッカーがあったから世界とつながっているだとわかった
ー引退後、元日本代表監督オシム氏の通訳をされていたんですね。
高校時代の友人から「セルビア語を話せる人を探している」と連絡がありました。当時は、3人の通訳が候補に上がっていたのですが、ひとりの方がほぼ決まっていました。
でも試用期間として半年間、日本代表に帯同させてもらったんです。
特に記憶にあるのは、オシムさんがめちゃくちゃ怒ったとき、「お前らはもう必要ないからグランドの外に立ってろ!」と言われ、オシムさんが「俺が英語で伝える」と言い、自分はグランドに立たされたことですね(笑)
気持ちもめげそうになりましたし、悔しさもありましたし、代表の練習に対しての責任問題など色々な想いが駆け巡ったのは今でも忘れません。
そのあとはすごく怖かったですけど、「やらせてください」と言ってピッチに戻ってできることをやった記憶はあります(笑)セルビア時代の経験が、まさか通訳で活かせるとは思っていませんでしたけどね。
ー通訳の仕事が終わってからすぐに指導者になったのでしょうか。
オシムさんの通訳が終わったとき「もうサッカーはやめようと思った」
一般就職したりして気持ちの整理をつけたり、語学の勉強をしたりするつもりで、引退後にあらためてハンガリーに行ったんです。
そのとき、まだ本間和生選手はハンガリーのセゲド(3部)でやっていましたからね。みんながすごく歓迎してくれてうれしかったことを覚えています。
ハンガリーの語学学校に通いながら生活していたのですが、なぜか、授業が終わってからはセゲドで練習して、本間選手と同じメニューやったり、チームの遠征についていったりして、よくわからない学生生活を送っていましたね(笑)
選手時代には感じられない楽しさがありました。
ー通訳から指導者の道を選んだきっかけを教えてください。
ハンガリーへ2回目に戻ったとき、当時サポーターをやってた人と出会ったことがきっかけです。
突然、全然知らないおじさんに「お前、オシムさんの通訳やってたの聞いているぞ。すげーな!」みたいな感じで話しかけられたんです。俺はその人を全然知らない。
でも、自分がずっとやってきたサッカーを通して、“世界とつながっている”とわかったんです。
「遠い国のやつのことを気にしてくれて、こういう人が世界にいるんだな」と知ってすごく考えさせられたんですよね。あのとき声をかけてくれなかったらサッカーはやめていましたね。
サッカーに感謝しなきゃいけないって思ったタイミングから、自分が得てきたものを返していこうと、一人で勝手に盛り上がってしまい指導者の道を選びました(笑)
ーなぜ現在監督を務めるヴェルメリオを選んだのでしょうか。
これを言うと誤解を生むかもしれないですが、レベルが低い選手の指導からやらないと、サッカーの本質がわからないと思ったからです。
ヴェルメリオに来る前は、ある程度“サッカーができる選手”を見てきました。
要求しなくてもできる選手がいたり、パスサッカーにこだわったりして指導していたけど、そもそも、個人で打開できないレベルだと、自分の指導レベルではサッカーの躍動感が物足りないということに行きつきました。
なので、あえてスキル・身体能力レベルの低い選手と一緒にサッカーに関わることで、サッカーの原理原則に沿って選手の本能を解放して行くことを学ぼうと思い、このクラブでチャレンジすることを決断しました。
それと合わせてヴェルメリオのスタッフと一緒に指導していくのが楽しいと思えたことも選んだ理由ですね。
あとは、自分のクラブも持ちたかった。当時ヴェルメリオで指導しないかって声をかけてもらったときから、自分のクラブを持ちたいと言っていたんですけど、その可能性があったのも理由の1つですね。
ーご自身の経験からヴェルメリオで海外遠征に行ったりするのでしょうか。
うちのクラブはチームとして海外遠征に行くことはまだしていません。行くなら個人でチャレンジしてもらいます。
チームのみんなで行っても、勝った負けたで終わったり、あいつがすごかったという感想だけしか残らなかったりするからです。だったら一人で行って、一人の弱さや他人のありがたみなど、色々なことを感じてこいって思っています。
このクラブでは、行きたい選手には、エージェント会社を紹介することもできます。
ーヴェルメリオではどんな選手に育てていきたいと思っていますか。そのために意識していることはありますか。
結論をいえば「本能で動く選手を育てていきたい」です。
どうすれば選手が本能的に動けるようになるのか、どうやって選手の本能を引き出すか、という点はすごく意識しています。
大体の選手は、このコーチは何を求めているだろうかとか、探り合ってからやり始めることが多いと感じています。
でも自分が求めているのは、そこではないんです。
たとえば、サッカーはゴールがあって、ボールがあって、相手がいますよね。そこで勝つことを目的としたとき、目的達成のために必要なことを「まずは選手自らアクションしてみようよ」と思っています。
僕たちスタッフは、環境を作って褒める。良い行動やプレーが出れば褒めてあげて、基準を明確にしながら、選手たちにはその基準を保ちながら自由な発想をどんどん出して、本能剥き出しでプレーする習慣を身につけてほしい。ここは自分の中でかなりポイントにしています。
22歳という決して早くない年齢でヨーロッパへチャレンジした内野氏。4年間のプロ生活を通して厳しさや挫折、仲間とのつながりなどを経験してきた。
サッカーの本質とは?を求め続けながら、今日もクラブで教え子たちと向き合っている。選手たちに伝えたいことはたくさんあるが、昔と環境や状況も違うため、むずかしさも感じているという。将来、ヴェルメリオから世界で活躍する選手が出てくることを期待したい。